□ この感情の名をまだ知らない □ |
「・・・・・・。」 用事を済ませて白い鴉亭に戻ると、待たせていたアーシャの傍らに、ユーリスの知らない男の姿があった。こちらに背を向けているので、アーシャの表情はわからないが、優男風の男はやけに馴れ馴れしくアーシャに話しかけている。どうしてこうなっているのだと、ユーリスはここのマスターである幼馴染を睨みつけた。 (…全く。これだから、放っておけないんだ。) いつもこうなのだ。ユーリスがちょっと目を離して1人にしておくと、アーシャはもれなく性質の悪そうな連中に絡まれている。どう考えても怪しげな壺を売り付けられそうになっていたこともあるし、どこかへ連れて行かれそうになっていたこともあった。ユーリスが知るだけでも両手はくだらないのだから、一緒に行動していない間のことも含めれば、もっと多いのだろう。 アーシャはこう見えて、ユーリスがその実力を認めるほどの猛者だ。しかし、普段の彼女はそうとは信じられないほどぽやっとしていて、正直起きているのか寝ているのかわからない。あれでは、格好の獲物と思われても仕方ないだろう。 これまで辺境のアトリエから離れたことがほとんどなく、極々限られた人間としか接点を持ってこなかったというアーシャは、山に籠もってばかりの生活を送っているユーリスですら危なっかしく感じるほど世間慣れしていない。戦うことに関しては頼もしいことこのうえないが、それ以外ではてんで頼りない彼女のことを、ユーリスは生まれたばかりの雛鳥を見守るような気持ちで見ていた。 ほんの少しの時間とはいえ、そんな彼女を1人にしておくのは不安が残る。ここならカイルの目が行き届くから安心だろうとアーシャを残して行ったのだが、カイルは一体何をしていたというのか。そんな苛立ちを視線にこめると、カイルは少々大袈裟なくらいに身を引いて、“オレのせいじゃない”とばかりにぶんぶん首を横に振った。 そんなカイルの様子にふぅと小さく溜息を吐いて、ユーリスはアーシャへ視線を戻す。とりあえず、カイルに文句をいうのは後回しにして、先にアーシャを救出しなければならない。とはいえ、大抵の場合はユーリスが一睨みするだけで逃げていくので、大した手間ではなかった。いつもナナカに注意される無愛想さも、こういうときには役に立つ。 「おい、俺の連れになにか用か?」 静かにアーシャの背後に歩み寄ると、ユーリスは相手の男を正面から見下ろした。ユーリスの存在に気が付いた男が、ゆっくりと顔をあげる。そこで初めて、ユーリスは相手の男の顔をしっかりと見た。くせのある灰色の髪を肩の辺りまで伸ばした、随分と軟弱そうな男だ。男は慌てた様子もなく、ただユーリスを見て不思議そうに首を傾げる。 「…うん?えっと、君は…?」 男がそう言ったとき、アーシャが後ろを振り返った。 「あっ!ユーリスさん、おかえりなさい!」 それと同時に綻ぶような笑顔を向けられて、ユーリスは少々面食らった。いつもなら情けない顔をして、助けを求めるようにユ−リスの名を呼ぶのに、どうも今日は様子が違う。 「もうご用事は済んだんですか?」 「…あ、ああ。」 ユーリスが戸惑っている間にも、アーシャはにこやかな笑顔でそんなことを尋ねてくる。全くもって、状況が理解できない。目の前の男にどう対処したらいいか計り兼ねたまま困惑気味にそう返すと、ユーリスの様子に首を傾げていたアーシャが、あっと小さく声をあげた。なにかを告げようとして口を開きかけるが、それは勢い良く開かれた扉の音に掻き消された。思わずそちらに目をやるのと同時、さほど広くない酒場に明るい声が響く。 「ラナン、お待たせ……って、あれ?アーシャちゃんにユーリスさん?」 その声の主を、ユーリスは知っていた。アーシャに付き合って探索へでかけたときに、何度か出会ったことがある。名前をアーニーと言って、アーシャがアトリエに引き篭もって暮らしていた頃からの数少ない知り合いだ。彼は行商人であるらしく、この白い鴉亭にも時折こうして顔を出す。当然マスターであるカイルとも顔見知りなので、恐らくアーシャと知り合う以前にも、ユーリスは彼を見かけている筈だが、きちんと個を認識するようになったのは最近だ。 「遅いよ、アーニー。」 不満を隠しもせずそう答えたのは、アーシャに声を掛けていたあの男だった。こちらを見てアーニーが口にしたのは、“アーシャ”と“ユーリス”、そしてユーリスの知らない“ラナン”という名前。ということは、返事をしたこの男こそがその“ラナン”なのだろう。ここにきて漸く、ユーリスにも状況が呑み込めてきた。 「お久しぶりです、アーニーさん!」 「…どうも。」 名前を呼ばれたので、声を弾ませているアーシャに続いて軽く会釈する。…そういえば近頃は、気球を手に入れたからと浮遊島に赴いたり、弐番館の最下層まで降りたりしていたから、しばらくアーニーには会っていなかった。なるほどこの喜びようはそのせいかと、ユーリスは珍しくはしゃいでいるアーシャの横顔を覗き見る。再びアーニーに視線を戻せば、彼はやぁと片手をあげながら、人の良さそうな笑みを浮かべてこちらに近づいてくるところだった。 「ごめん、思いのほか手間取っちゃってね。」 「全く、少しは待たされるほうの身にもなって欲しいよ。だいたい、僕は―― 」 「はいはい。文句はあとで聞くから、とりあえず先に注文を済ませちゃおうか。ラナンは日替わり定食でいいんだっけ?」 尚もぶちぶちと言い募ろうとするラナンとやらの言葉を遮り、アーニーが手早く注文を済ます。カイルがジョッキに入ったビールをテーブルに持ってくると、それに口をつけた男―― ラナンはやっと大人しくなった。…どうにも、面倒くさい類の男らしい。そんな思いが表情に出ていたのか、自身も紅茶のカップを傾けながら、アーニーが苦笑を交えて聞いてきた。 「アーシャちゃん達は、もうお昼は食べた?」 「あっ、はい。わたし達は少し前に済ませちゃいました。」 「そっか、それは残念。」 話が途切れたところで、カイルがタイミングよく料理を運んでくる。それを胃袋に詰める作業に没頭しはじめたラナンを見て、今はなにを告げても聞こえないと悟ったのか、アーシャがこちらに向き直った。 「ユーリスさん、こちらはラナンさん。ラナンさんは詩人さんで、ときどきこうしてアーニーさんの仕事のお手伝いをしているんですよ。」 微笑むアーシャが少しだけ決まり悪そうなのは、どうしてユーリスがあんなふうに2人の会話に割って入ったのか、今更ながらに気付いたからだろう。少し大袈裟なくらいに溜息を吐いてみせると、アーシャが肩を竦めて苦笑した。 「……あまり、驚かせるな。俺はてっきり、またいらんものを売り付けられそうになっているのかと思ったぞ。」 「心配かけてごめんなさい。ユーリスさんとはずっと一緒だったから、すっかりラナンさんともお知り合いだと思っちゃってました。」 内心を言い当てられたような気がして、ユーリスの心臓がどきりと跳ねた。 ユーリスとアーシャが出会ったのは、今から数年前のことになる。けれどそれは、ナナカを通じて互いに見知っていただけのことで、実際にアーシャ個人と交友を持ち始めたのは、それほど昔のことではない。しかし今では、間違いなく妹であるナナカよりも多くの時間を共にしている。ユーリスの転機には必ず、傍らにアーシャの姿があった。 だからそう言われてしまうと、返す言葉が見つからない。ユーリス自身そう感じていたからこそ、自分が知らないラナンのことを、当然アーシャも知らないものだと断じたのだ。 「…俺はカイルに少し話がある。それが済むまで話しているといい。」 久々に会えたのだから、アーシャはアーニーと話したいだろう。そう思い、それだけ告げて背を向けると、嬉しそうに弾んだアーシャの声が背後から追ってきた。 そうして1人カウンターにつくと、そこには案の定にやにや顔のカイルが待っていた。こちらが注文するより先に出されたビールをうんざりしながら受け取って、なにか言われる前にと口をつける。その様子を面白そうに見ていたカイルは、ユーリスがジョッキを置くのを待って、わざとらしく潜めた声で言った。 「うわー、“俺の連れ”だって。ユーちゃん格好いい!」 「茶化すな、カイル。」 自慢ではないが、愛想の悪さには自信がある。ぎろりとカイルを睨め付けるが、その眼光にも全く臆した様子のない幼馴染は、わざとらしく肩を竦めて見せた。 「おお、怖い怖い。…けど、余裕のない男は嫌われるぜ?」 「うるさい。」 言いながら、空になったジョッキを軽く振って、2杯目を催促する。仕方がなさそうにビールを注いでユーリスの前に置いたカイルは、気だるそうに肘をついた。そしてちらりと、アーシャのほうを見やる。つられるように視線の先を追うと、アーシャはとても楽しそうに笑っていた。久しぶりに会ったアーニーに、話したいことがたくさんあるのだろう。まるで子供のようなはしゃぎように、思わずユーリスの頬も緩む。 「…でもまぁ、アーシャちゃんここ数年でますます綺麗になったもんな。いくら朴念仁のお前でも、そりゃ心配になるか。」 「……。」 そう言われて、ユーリスは眉を顰めた。あまり意識したことはないのだが、どうやらアーシャは俗に言う美人の部類に入るらしい。そのことは、アーシャと行動を共にするようになってから嫌というほど言われてきたので、ユーリスだってわかっている。なにかにつけては羨ましいだのうまいことやっただのと、耳に蛸ができるくらい言われてきた。 だが、アーシャが美人であろうがなかろうが、それは大した問題ではない。ユーリスにしてみれば、アーシャは安心して背中を預けることのできる良き戦友だ。彼女の見た目に惹かれて、一緒にいるわけではない。…だというのに、周囲はアーシャを外見だけで判断しがちだ。腑に落ちないといった風に眉間の皺を深くしたユーリスを見て、カイルが苦笑した。 「オレだって、お前の大事な子じゃなけりゃ口説いてるところだぜ。」 「…カイル。前にも言ったと思うが俺と彼女はそういう関係では――」 「違うって?だったらオレ、本気でアーシャちゃんのこと口説くけど、お前はそれでいいわけ?」 「………。」 どうせいつもの軽口だろうと高を括っていたユーリスは、思わず言葉を失った。カイルの目が、思っていた以上に真剣だったからからだ。 「…お前がアーシャちゃんのこと、好きでもなんでもないっていうんなら、オレも本気で口説くぜ。けど好きだって言うなら、一切手は出さない。正直なところ、お前とアーシャちゃんの組合せって結構お似合いだと思ってたし、弟分の恋路を邪魔する気はさらさらないからな。」 カウンター越しに身を乗り出して、ユーリスにしか聞こえない声でそう囁く。いつになく落ち着いた静かな声色が、カイルの本気を示しているようだった。 「なんでもないって言うんなら、オレにだって挑戦する権利ぐらいあるだろ。あれだけの美人だ。駄目で元々だが、万が一振り向いてくれたら儲けもんだろ。」 カイルの言葉のどこにユーリスを苛立たせる要因があったのか、正直に言えばよくわからない。けれど恐らく、アーシャを軽んじているような言い方が気に入らなかったのだろう。彼女という人間の本質を知ろうともしないで、見た目ばかりを綺麗だ、美人だと褒め称えるやつらと同じ薄ら寒さを感じた。 そんなやつに、アーシャは渡せない。アーシャは綺麗な人形ではなく、きちんと血の通った人間なのだ。可憐な外見にそぐわず腕っ節が強いし、そのくせ自分の命を狙っていた魔物でさえ、哀れむことのできる心根の優しさを備えている。薬に関することになると途端口数が増えるし、寝言だって不寝の番をしていても飽きないくらい多い。うしが好きで、たった1人の妹を過保護なくらい大事にしていることを、そのうちの何人が知っているだろう?きちんとアーシャという娘がどんな人間かを知って、そのうえで大切に想ってくれるような輩でなければ、彼女を任せることなど到底できないのだ。 それなのに、カイルの言いようはどうだろうか。アーシャという少女を外見でしか判断しない人間と、なにも違わなかったのではないだろうか。そう思うと、ふつふつと怒りが込み上げてきた。 「………それはつまり、その程度の気持ちでしかないということか?」 「ん?」 思いのほか低い声だったから、うまく聞き取れなかったのだろう。ほとばしる殺気を隠しもせず睨みつけると、首を傾げてこちらを見たカイルが、さすがにぎょっとして身を引いた。少し温くなっていたビールを煽り、空のジョッキをいささか乱暴に置くと、怒りに任せて席を立つ。…去り際、呆然としているカイルにだけ聞こえる声で呟いた。 「俺はあいつの恋人でもなんでもないが、その程度の気持ちしか持ち合わせていない奴に、あいつは渡さない。」 そうして今度こそ、カイルに背を向けて歩き出す。アーシャには悪いと思ったが、まだ楽しそうに話していた彼女の腕を有無を言わせずに掴み、半ば引き摺るようにして白い鴉亭を後にした。白い鴉亭を出てもまだ足を止めず、そのままホルンハイムを出ようとするユーリスを見て、怒っているのだと察したらしい。腕を引かれたままのアーシャが、背後で笑う気配がした。 「ユーリスさん、またカイルさんと喧嘩したんですか?」 「…違う。子供じゃあるまいし、そんなことはしない。」 “また”という言葉に若干引っ掛かりを覚えたが、あえてそこには反論せず否定する。けれど、彼女はユーリスの言葉をそのままにはとらなかったようだ。小さな子供を相手にしているような雰囲気を声に滲ませて、くすくすと笑いを噛み殺す。 「ふふっ、そうですね。喧嘩なんてしませんよね、子供じゃないですもんね。」 「………。」 なんともいえない気持ちになり、ユーリスは足を止めた。後ろを振り返ると、手を引かれて歩いていたアーシャはユーリスの背から顔を覗かせて、“どうかしました?”と首を傾げる。その無邪気な仕草に気を削がれて、ユーリスは小さく溜息を吐くと、今度は先程よりだいぶゆっくりした速度で再び歩き出した。 渦中の本人は、自分のことを話されていたとは露ほどにも思わないらしい。…全く持って、呑気なものだ。 そう思いながら、まだ離さない小さな手の感触を確かめる。ナナカはもう、恥ずかしいからといって手など繋いではくれないが、こうして振り払われないでいるところをみると、アーシャにはまだ嫌がられてはいないらしい。ユーリスが少しだけ握る手に力を籠めると、アーシャの柔らかいそれがそっと握り返してきた。その温かさにほっとして、つい口元が緩む。 もう少し、もう少しだけこうしていよう。 彼女を安心して任せられると思う男が現れるまで、あともう少しだけ――― …結局、エステン湿原でうし達に草を食ませていたナナカに見つかってからかわれるまで、2人の手は繋がれたままだった。 □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ 一方その頃。カイルは呆然とユーリスの背を見送って、勢い良く閉められた扉を見つめていた。 「……ははっ。なんだよ、あれ?もう答え出てるようなもんじゃねぇか…ったく、心配して損したぜ。」 思わず脱力してカウンターに寄り掛かり、額を押さえて天井を仰ぐ。まさかあんな視線を向けられるとは思っていなかったから、さすがに少々肝が冷えた。殺気、とでもいうのだろうか。勿論ユーリスには本気でカイルを殺す気などなかっただろうが、人1人ぐらい簡単に射殺せてしまいそうなあの視線は、ただの酒場のマスターが受け止めるには少々きつすぎる。今のユーリスには、カイルのことを兄ちゃんと呼んで後ろを付いてまわっていた、あの可愛らしい少年の面影はどこにもなかった。 (…随分とまぁ、面倒臭い男に育ちやがって。) 小さい頃はあんなに可愛かったのに、今ではカイルが見上げなくてはならないほど、無駄に馬鹿でかく育ってしまったし、酒が飲めると気付いてからは、意趣返しにカイルの飲み物に酒を混ぜてくるようになって、輪をかけて可愛げがなくなった。 (あんな目するぐらい好きなんだったら、さっさと言っちまえっての。) そのくせ、人見知りだけは直らなかったのか、無口で無愛想。決して顔の造形は悪くないのに、妹以外の女にはこれっぽっちも興味がなく、それよりも山に籠もっているのが好き、という体たらくだ。…カイルが知る限り、あんな男に付き合えるのはアーシャぐらいのものだろう。 (だからきちんと捕まえとかないと、横から掻っ攫われるぞ。) カイルが出会った頃のアーシャは、まだあどけなさを残す少女だった。ペットのうしにこれでもかというほど荷物を乗せて、街の入り口を走り回っていたのを今でも覚えている。まるで家出少女のような出で立ちだったから、カイルは声をかけたのだ。そのときから、将来この子は美人になるだろうなと思ってはいたが、まさかここまでとは思わなかった。カイルの見立て通り、アーシャはここ数年で本当に綺麗になった。…だがそのせいで、これまで以上に周りが放っておかなくなったのである。 あれだけ一緒にいるのだから、ユーリスもアーシャも満更ではない筈だ。そう思っていたからカイルも呑気に構えていたのだが、そうとばかりも言っていられなくなった。ユーリスの長年の目標であった竜退治を共に遂げた今でさえも、2人の関係は全く進展を見せていないのだ。だから今回こうして発破を掛けてみたのだが、ユーリスのあの様子では、どうにもカイルの取り越し苦労だったらしい。 (断言してもいい。ユーリス、お前が言うような男は世界中どこを探しても、絶対に見つからねぇよ。お前自身が、アーシャちゃんを手離したくないと思ってるんだからな。) 「あーあ、本当可愛くない弟分を持つと苦労するぜ…」 大きく伸びを1つして、カイルはいつも通りの仕事に戻る。口ではそう言いながら、カイルの顔には薄っすらと笑みが浮かんでいた。 |
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書いてみたらユーリス×アーシャというより、ユーリス→←アーシャになっていました。 アーシャのことを本当の妹みたいに大事に思ってるんだという話を、アーニーに延々と聞かされたユーリスが、アーシャのこと好きですって白状する展開を希望。 いつもお世話になっている、『空漂う風船』の架里亜さんへ捧げます。 |
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執筆:2012/09/19