春に願う ――――――――――― 一瞬の沈黙。 その後に、まるで波のように訪れた拍手と歓声の中心で、彼女はそっと頭を下げた。 賞賛と羨望、そして嫉妬。周囲の様々な視線を受け止め、曖昧に微笑んでみせる彼女のその演奏が、言葉にならない哀しみの声だと気付いたのは、きっと多分僕だけだった。 2人きりの練習室。彼女のヴァイオリンの音色は、いつも通りに素敵だ。 けれど彼女の心に巣食う深い哀しみが、それをより一層強くしている。 彼女はとても、音に感情をのせるのが上手いから。 「なにか、君を哀しませるようなことがあった?」 僕がそう尋ねると、弓を動かしていたさんの手が止まる。 薄らと涙に潤んだ瞳を見て、僕は不意に気が付いた。 「・・・もしかして、寂しいの?」 それは、僕にヴァイオリンを辞めたのだと告げたときの瞳に良く似ていて、さんは形の良い唇をきゅっと噛み締める。 「春なんて、来なければいいのに。」 「そんなに春が来るのは嫌?」 彼女がヴァイオリンを弾き始めるほんの少し前、僕達は月森に出会った。 彼はいよいよ留学に必要な手続きが終了したといって、自分が望んだことなのにと苦笑した。 “。俺が日本を離れても、誰かが君のヴァイオリンを気に掛けてくれるといい。” そればかりが心配なのだと、そう告げる月森の視線はしっかり僕に向けられていて、真正面から見据えた月森の瞳の奥に、僕は少しばかりの希望と諦めの色を見た気がした。 ―――――――― 同じだから、知っている。 月森は、さんのことが好きだったんだ。 「だって・・・」 「・・・だって?」 力なく降ろされた彼女の腕を捕まえて、俯いた顔を覗き込む。 そんな悲しそうにしても、君を月森には渡せない。 だって僕も、彼女と彼女の音楽を愛していて、そればかりを切望しているのだから。 「春になったら、月森はウィーンに行っちゃうし・・・」 彼女の好きな月森の音は、この学院のどこにも響かない。 探しても見つからない、それはどれほどの苦しさだろうか? ・・・その気持ちが、僕にもわかるような気がした。 「梓馬・・・先輩も、火原先輩も卒業して。と梁は音楽科にいって―――――― 」 じわりじわりと瞳に溜まっていた涙が、重力に逆らえず、1粒零れ落ちた。 そうか、彼女は大切な人達が離れていくことが悲しかったんだ。 「・・・僕が、傍にいるだけじゃ駄目かな?」 「―――――――――― え?」 「僕じゃあ、みんなの代わりにはなれない?」 驚いて顔を上げた彼女の瞳から、瞬きをした拍子にはらはらと涙が落ちる。 しばらくの間呆然と僕を見上げていたさんは、きゅっと眉を寄せた。 「葵だって、ずっとは一緒にいられないでしょう!?いつか、離れてくに決まってる!!」 「―――――― ずっと、傍にいるよ。」 君が、赦してくれるなら。 「嘘っ!」 「・・・嘘じゃないよ。」 「じゃあもし、が留学するって言い出したらどうするの!?」 「僕も一緒について行く。」 「音楽科に編入するって言ったら!?」 「僕も、なんとかして編入してみせるよ。」 「嘘、嘘、嘘・・・っ!!だってあんなに嫌がってたじゃないっ!もう1度人前で弾いたら、挫折を味わうことになるって・・・!!」 「うん、それでも弾くよ。」 君と、一緒にいるためなら。 「・・・っ、あんたって本当に馬鹿・・・そんな、自分の人生棒に振るようなこと簡単に言って・・・」 「棒に振る?違うよ。寧ろそうならないために、かな。君の傍にいられないなんて、今の僕にはもう考えられそうにない。君のためなら、僕はいくらでもヴィオラを弾くよ。」 「なっ・・・」 言葉に詰まった彼女の頬は、叫んだせいか別の理由か、ほんのりと紅みが差している。 そんな彼女が可愛く思えて、逃げられないようにもうちょっとだけ追い詰めてしまいたくなった。 「言ってなかった?僕は、君の傍にいたいって理由だけで、この学院に転校してきちゃうような人間なんだよ。そんな人間が、君から離れられるわけないじゃない。」 だからもう少し、力を貸して欲しいんだ。 「―――――― なっ、ななななッ!?何言ってるの!?」 彼女の傍にいるためには、きっと君の力が必要だから。 「あのね、さん・・・」 だから、僕にもう1度音楽を始める勇気をください。 自分と向き合う強さをください。 そして君はその音色で、僕の背中をそっと押して。 「――――――――― 僕は、君の傍にいたい。」 “いいよ”と、優しい声でヴィオラが応えてくれた気がした。 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ コンコン。 まるでタイミングを見計らったかのようなノックの音に、可愛らしく頬を上気させていた彼女は、逃げるように扉まで駆け寄った。 「はっ、はい!どうぞ!!」 「失礼する。」 音もなく開かれた扉から、そっと体を滑り込ませて部屋に入ってきたのは、先程会ったばかりの月森だった。 「つ、月森?どうしたの?」 「いや、君に言い忘れたことが――――― 」 そこまで言いかけて、月森が視線を僕に移す。 「・・・加地もいたのか。」 どうやら、彼の視界にはさんしか映っていなかったらしい。 内心むっとするものの、それを表に出したら負けのような気がして、努めて平静を装った。 「うん、さんのヴァイオリンが聴きたかったら、お邪魔させてもらってたんだ。ところで、月森はどうしたの?」 「に、言い忘れたことがあったんだ。」 「に?なに?」 「俺は、春になったらこの日本を離れる。だが―――――― 」 そこで1度言葉を切った月森は、冷静沈着な彼にしては珍しく落ち着かない様子で視線を彷徨わせた。 「その、もし君が良ければ。夏休みにでも、遊びに来るといい。」 「え?」 「どうせ、俺はヴァイオリンばかり弾いているだろう。だからたまには、これまでのように俺を部屋から連れ出して欲しい。」 じっと自分を見上げているさんに目線を合わせ、月森が笑う。 普段から笑うことの少ない彼を笑わせることが出来るだけでも凄いのに、彼のその表情ときたら、見ているこちらが恥ずかしくなるほどに優しくて、さんのことが愛おしいのだと一目見てわかる。 「それに、1度ウィーンの街を見ておくのも、君とって決してマイナスにはならないだろうから・・・」 それにしても月森は不器用だ。 ただ君に会いたいだけなのだと、その一言が言えずに困っている。 僕だったら、躊躇わずにそう口にしてしまうのに。 「うんっ!」 けれどそんな月森の様子に、さんの表情が笑顔になる。 傍から見ているとくすぐったいだけの彼の不器用な愛情は、彼女の心に響いたようだ。 「向こうに着いたら、ちゃんと連絡して。ヴァイオリンに夢中になるのはいいけど、ずっと音沙汰がないとかそういうのはなしにしてよ?」 「わかった。向こうでの生活が落ち着いたら、1番に君に連絡する。」 「本当に?忘れないでよ、約束したからね。」 「・・・・・・あぁ、約束だ。」 呟く月森の表情は、とても甘くて優しい。 元気のなかったさんも、どことなく嬉しそうで・・・そんな微笑ましい光景も、僕にとっては毒でしかない。 僕はさり気無く、2人の会話に割って入った。 「・・・・・・月森、それ僕もお邪魔していいかな?」 「・・・あぁ、構わないが?」 不思議そうに、けれどあっさり了承する彼はもしかしたら、さんが好きだという自覚がないのかもしれない。 「僕、ウィーンにはまだ行ったことがないんだ。1度行ってみたかったんだよね。」 最も僕には、わざわざそんなことを指摘して教えてあげる義理なんて、これぽっちもないのだけれど。 だから、話はそれだけだと言って去ってゆく月森の背中を、優しい眼差しで見送るさんの背後に、僕はそっと近付いた。 「・・・ねぇ、さん。」 「なによ?」 「――――― さっきの話、覚えておいてね。」 “――――――――― 僕は、君の傍にいたい。” 「!!」 季節はもうすぐ冬を越え、桜も蕾をつける頃だったけれど、まだ僕に春は訪れない。 ――――― 今の僕は、いつか訪れるかもしれない春に君が笑っていることを願うばかりだ。 |
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戯言。 季節的には、2月3月頃の話でしょうか。 それぞれが新しい道を進み始めて、自分1人になってしまうような気がしている。 そこに付け込んで(?)友達以上恋人未満な関係から脱却を図ろうとしている加地のお話。 |
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2007/04/30