□ エクレール・オ・ショコラ □






けたたましく鳴り響くアラームの音に、ゆっくりと意識が呼び戻される。きつく瞼を閉じていてもわかる周囲の明るさに眉を顰めて、ホープは枕に顔を埋めた。
・・・しかし、目覚ましはいつまで経っても鳴り止まない。違和感を覚えたホープは薄く目を開け、隣に愛しい人の姿がないことに気が付いた。いくら腕を伸ばしても、そこには冷え切ったシーツがあるだけだ。


・・・そういえば、ライトさん昨日は帰り遅かったんだっけ。


ここ最近、目覚ましはいつも彼女が止めてくれていた。そして、アラームの音に負けじと惰眠を貪ろうとするホープの髪を、優しく掻きあげながら言う。“ホープ。朝だぞ、起きろ。”その彼女がいないと気付いて、ホープは煩い目覚ましを止め渋々起き上がった。こうしてベッドの上でごろごろしていても、ホープを揺り起こしてくれる人はいない。実のところ、ホープはそれほど朝が弱くないのだが、彼女が滅多に見せない優しい顔で甘やかしてくれるので、すぐには起きようとしないだけだった。

ライトニングと眠る生活に慣れてしまったせいか、腕に彼女の重みを感じないことが妙に落ち着かない。自分と同じように、彼女はホープが隣にいない夜を寂しいと思っただろうか。そんなことを考えながら、制服のシャツのボタンを留めた。鏡に映った自分の顔は未だ眠たそうで、以前だったらこんなときはもう一眠りしてしまったのだが、今は彼女のいないベッドになど戻る気にもならない。朝、ライトニングと過ごす時間を作るためだけに、登校時間により1時間早く目覚ましが鳴るように設定されていることは、彼女にだけは絶対に秘密だった。


ライトさん、帰ってきてるのかな・・・


昨日、学校が終わって家に帰ってくると、留守番電話にメッセージが残されていた。ホープの携帯に連絡をくれてもいいのに、授業中とわかっているからかわざわざ家の電話にメッセージを残すところが彼女らしいといえば彼女らしい。
再生してみると、これまた彼女らしい淡々とした声で、要点だけを告げたメッセージが録音されていた。
まず、今日は会議が長引いて帰りが遅くなりそうなこと。次に、帰るのは明日になるかもしれないら、待っていないで寝ていること。そして最後に謝罪の言葉と
―――――


“おやすみ・・・愛しているよ、ホープ。”



ほんの少しの逡巡ののち、甘い声色でそう言ったところでメッセージは終わっていた。まるで、ミドルスクールの教諭が生徒に連絡事項を告げているようだと笑ってしまいそうになったところへ、まさかの不意打ち。言い終えた途端、ぶちりとメッセージが切れたのは、彼女が照れていたからだろうか。
ともかく、それを聞いたホープは1人で家中をのたうちまわる羽目になった。誰かに見られたら、不審者扱いされていただろう。いやそれ以前に、そんなところを見られたら恥ずかしくて消えてしまいたくなる。

思い返して気恥ずかしくなりながら、ホープは最後にブレザーを羽織った。そうして鞄を持つと、彼女が帰ってきている可能性を考えてそっと部屋を出る。薄暗い廊下を通りリビングに向かうと、すぐにライトニングが帰宅していることがわかった。
テーブルの上に用意しておいた、彼女の夕食がなくなっている。シンクを覘くと、使い終わったあとの食器が水に浸されていた。ホープが全く気付かなかったことを考えると、朝方になって帰ってきたのかもしれない。待っていなくていいと言われたけれど、疲れて帰宅した彼女に一言お帰りなさいと言いたくて、ホープはかなり遅くまで眠らずに待っていた。

そう思ってふと床に視線を遣ったホープは、そこにあるものを見つけた。見慣れたライトニングの赤いマントが、だらしなく落ちている。その先にも黒い物体が打ち捨てられているのを見つけて近寄ると、今度はグローブだった。


「うわぁ・・・」


彼女が通った道筋を示すように、脱ぎ捨てられた衣服は転々とバスルームまで続いていた。ブーツ、バッグ、ソックス、上着・・・仕舞いには、ホットパンツやブラジャーまで落ちている。妹と2人きりの生活が長かったせいか、彼女はこんなところで無頓着だ。お陰でホープは、それらを拾って歩きながら、彼女を想って悶々とするしかない。何度かの行為で仕事着の構造は理解していたから、今彼女がどんな格好か、明確に思い描けるだけ厄介だ。

そうして辿り着いたバスルームは、明かりどころか物音さえなくて、彼女がここにはいないことを示していた。鉢合わせしなくてほっとした反面、薄着で風邪を引いたりしないかと不安になる。とりあえず、ここに来るまでに拾った彼女の衣服の一部を出来るだけ見ないようにして洗濯機に突っ込むと、電源を入れた。

もう幾度となくこなしているが、どうにも女性ものの下着を洗うことには慣れない。ホープがライトニングの下着を洗濯することがあるように、ライトニングもホープの下着を洗濯することがあるはずだが、彼女はなんとも思わないのだろうか?そういえば、一緒に暮らし始めたばかりの頃も、ホープが一方的に下着を洗濯されることを恥ずかしがっていた。それに、今そんなことを彼女に問えば、“散々裸も見ているくせに、今更なにを言っているんだ?”と本心から首を傾げられそうで怖い。ライトニングという人は、恋人の欲目を差し引いても美人だと思うのに、他人の目に自分がどう映るかということにあまりにも無自覚だ。


・・・このぶんだと、今頃は部屋で寝てるんだろうな。


食事もシャワーも済ませたとなれば、あとは次の出勤に備えて休養を取るくらいだ。“あとで様子を見に行こう”、そう心に決めてホープは自分の朝食の準備に取りかかった。







こんがり焼いたトースト数枚と、手間の掛からない卵料理でホープが朝食を済ませた頃には、まあまあの時間帯になっていた。急がなければいけないほどではないが、そろそろ出掛ける準備をしなければならない。もう1度鏡で身だしなみを確かめて、ホープはライトニングの部屋の前に立った。


「・・・ライトさん?」


小さな声で呼びかけてみるが反応はない。きっと、疲れて眠っているのだろう。わざわざ起こすのは忍びないが、顔を見るくらいは許されるだろうとホープはドアに手を掛けた。


「すみません、入りますよ
―――――


彼女の顔をひと目見て、それから学校に行こう
――――― そんな軽い気持ちだったのに、僅かに開いたドアの隙間から顔を覗かせたホープは、そのまま言葉を失った。
遮光カーテンで覆われていると思っていた窓には、薄いレースのカーテンが引かれていただけで、そこから差し込む日差しが室内を明るく照らしている。そんな部屋の一角にある、近頃あまり使わなくなった自分のベッドで、ライトニングは眠っていた。申し訳程度に纏ったブランケットは、既に意味を成しておらず、ライトニングの曲線美を惜しげもなく晒している。殊更、短い丈のスカートから投げ出された太腿が艶かしい。


うわあああああああああああ!!!!!!!!!


声には出さず、心の中でホープは絶叫した。念のために言っておくが、ここは1Fである。つまり、部屋に面した通りを人が歩く可能性があるわけで、これではあられもない姿のライトニングをどこぞの誰かに見られないとも限らない。彼女に言わせれば“だからカーテンは引いた”というところなのだろうが、はっきり言ってあんな薄っぺらいカーテンでは力不足だ。

ホープは無言のまま部屋に踏み入り、窓から外を見て人影がないことを確認すると、遮光カーテンを4分の3ほど閉めた。ほんの少しだけ開けておいたのは、ライトニングが暗いよりも明るいほうがいいと判断したのかもしれないと思ったからだ。それから腰のあたりにたぐまっているブランケットをそっと持ち上げて、丁寧に掛け直す。首から下がすっぽり覆い隠されたのを確認すると、ホープはほっと息を吐いた。


全くもう、この人は・・・


窓に背を向けて眠る彼女の顔を覗きこんで、額に掛かっている髪をゆっくりと掻きあげる。まだ湿っぽさが残っているところからすると、洗ったあときちんと乾かさないまま寝たらしい。学校から帰ってきたら、きちんと注意しておかなければと思いながら、ふわりと漂うシャンプーの香りに頬が緩んだ。


「おやすみなさい、エクレール。僕も、あなたのことを愛しています。もう何年も前から
―――――


初めて愛を告白したときのように囁いて、露わになった彼女の額に口付けを落とす。唇はそのままこめかみをなぞって耳へと滑り、緩いウェーブの掛かった髪の一房に触れて離れた。
幼い頃、たった1度だけ聞いて忘れられずにいた彼女の本名は、まだ勇気が足りなくてこんなときでもないと呼べそうにない。最後にふっくらと色付いた彼女の唇を指先で一撫ですると、ホープは部屋の時計を見て立ち上がった。もう、学校に行かなければ。このまま、眠るライトニングの傍を離れるのは惜しい気もしたが、そんな理由で学校をサボったなんて知られたらそれこそ彼女の機嫌を損ねる。そうしたら一緒に寝るどころか、キスだって何日も許してくれないに違いない。自分からお預けだと言いだしておきながら、少しだけ物足りなそうにホープを見るライトニングの姿がいとも容易く想像できて、ホープは苦笑した。そんなライトニングも可愛いが、なによりホープが耐えられそうにない。小さく声に出して笑ってから、ホープは部屋を出る直前もう1度だけ眠る彼女を振り返った。


「行ってきます、ライトさん。」








段々と、遠のいていく音に耳を澄ませる。やがて玄関を開閉する音がして、足音が完全に聞こえなくなると、ベッドで眠っていたライトニングの睫毛がふるりと震えた。瞼がゆっくりと持ち上がり、アイスブルーの瞳が覗く。その頬はほんのり赤く染まっており、寝起きの筈のライトニングは、妙に落ち着かない様子でベッドの上で身動ぎした。


「・・・・・・・・・馬鹿、あんなことされて眠れるか。」


“ホープのくせに、呼び捨てなんて生意気だ”と呟いて、ライトニングは赤い頬を隠すようにブランケットに顔を埋めた。
―――――― 誰にも呼ばれなくなって久しいその名。雷を意味するとばかり思っていた名が、今だけは甘い洋菓子の名前だと思えた。











この話も同居シリーズの設定を引き継いでいます。これじゃあホープのお父さん、帰りたくても帰ってこれませんね(笑)

エクレールは仏語でエクレアのこと、正確にはエクレール・オ・ショコラというそうです。エクレアという単語自身は元々稲妻という意味だそうで、ああだからライトニングねと。
ライトさんは両親のこと嫌いじゃなかったみたいですし、貰った名前を完全に捨てるというのは妙だと思っていましたが、きちんと関連性がありました。

両親がどういう意図でその名前をつけたのかはわかりませんが、多分ライトさんは稲妻のほうで解釈したんだろうな。或いは、稲妻のように強くありたかった。でもライトさんの両親は、きっと甘いお菓子のような女の子になって欲しいと思ったんじゃないかなと勝手に考えてみたり。




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2010/02/20