、おいで。」



神出鬼没、と周囲から称されるだけあって、ヒノエはとても身軽だ。

その上身長も、より10cm近く高いから、そのぶん歩幅もより広くなる。
そうでなくとも今まで着ていた服と違って、この世界の服は歩きづらいというのに
そのコンパスの差は、今のにとってまさに致命的だった。
先を行くヒノエをほとんど小走りの状態で追いかけねばならないのだ。

・・・ただそれでも。

意地に掛けても絶対に、置いていかれるような失態彼女はしない。
そしてヒノエもそれを知っているからこそ、笑ってを引き離しにかかるのだ。






03.散歩
=ヒノエ篇=







一方そんなと対照的に、ヒノエは極々上機嫌だった。
パタパタと小さな足音が、懸命に自分を追いかけてくる。
自分に置いていかれまいと、必死に歩くの様子が、振り返らなくてもわかった。


――――――― ・・・


異世界から来たのだという彼女は、今や熊野別当お気に入りの愛玩動物だ。
そんな彼女を引き連れて、熊野の町並みを散歩するのが
熊野別当であるヒノエの、ほぼ毎日の日課になりつつあった。


ヒノエが呼べば、はそれが何処であろうとも、所構わずついてくる。
木の上だろうが船の上だろうが、例えそれがヒノエの膝の上だろうがやてくるのだから
“散歩”と称した気分転換兼見回りに、彼女が付いて来ない筈もない。


世の中にこれほど怖いものはないとばかりに怖がっていた水の中にすら
ヒノエが両手を広げて『おいで』と呼べば、いくら渋って見せていても、結局最後には入ってくるのだから
ヒノエの手伝いをしてゴロツキ退治をすることぐらい、には造作もないことだ。


親鳥の後を追いかける雛鳥のような、盲目的なこの信頼は
彼女がこちらの世界にやってきたとき、意図せずにヒノエが刷り込んだものだった。
だがその様が可愛らしいくないといえば、それはやっぱり嘘になる。


掛けた手間を純粋な好意で返されるのは、誰しも悪い気はしないものだ。


そんな健気な彼女の姿は、熊野に住む人々にとっても、既に当たり前の光景になりかけていた。
とヒノエが連れ立って歩いていれば、皆その様子を微笑ましそうに眺めているし
ヒノエが一人で歩いていれば、今日はと一緒じゃないのかと訊ねられる。
それほどに、をつれて歩くヒノエの構図は、熊野の町に浸透していた。


特に、普段は動きやすい服装を好む彼女を
綺麗に着飾らせて連れ歩くのが、ヒノエのお気に入りだ。
いつもは可愛らしさよりも凛々しさが勝る彼女だが、これが着飾れば驚くほど綺麗になる。
自分好みに仕立てあげ、見違えるほど綺麗になった彼女を連れて
皆に見せびらかすように町を歩くのは、物凄く気分が良い。


最初は町の案内がてらに始まったこの“散歩”だが
今ではすっかり、よりもヒノエのほうが気に入っているかもしれない。
・・・そんなヒノエは今、わざとを置いて、先に歩いていくことに凝っていた。


こんなこと、話せば趣味が悪いと言われるのは目に見えているので
本人はもとより、八重にも命にも、誰にも教えていないのだが
置いていかれまいと一生懸命に自分を追ってくるの姿が、ヒノエはかなり気に入っていた。


いくらヒノエが先に歩いていってしまっても、は絶対に『速い』とは言わない。
必死になって、ヒノエの歩調に合わせようとするのだ。
普段ならそれとなく、女性の歩幅に合わせて歩いてやるヒノエだったが
たまには合わせて貰うのも悪くはない、そう思った。


なによりは待ってやるばかりでなく、自分の隣に並んで歩ける女なのだから。


が普通に歩いていたら、決して追いつけない速度で
けれどヒノエとの間の距離が、それ以上開くことは絶対にない。
軽く引き離す程度、ちょうどの速度を器用に保ち、ヒノエは歩き続ける。



「ヒノエ・・・っ、今日は、何処へ行くんだ?」



勝浦の街から少し外れ、人気の少ない林の入り口辺りまでやってきたとき
小走りになって追いついてきたが、そう訊ねてきた。
いつもと変わらず、さり気無い口調を装ってはいるが
問いかけるの呼吸は、気のせいでなしにどこか荒い。
これで彼女は、ヒノエに気取られていないつもりなのだろうか?
それでも文句一つ言わず、自分を追いかけてくるにヒノエは小さく苦笑して、少しだけ速度を緩めた。



「もう少し、奥まで行こう。木の上から見るこの辺りの景色は最高だぜ?」

「・・・今日は、海を、警戒するのか?」



ザザン、ザザンと聞こえてくる波の音に耳を傾け、が言った。
この切り立った崖の下が海だと気付いたのだろう。



「ふふっ。・・・お前は賢いね、。」

「だって、ヒノエが言う“散歩”は、いつも見回りだ。」



そう返事をしながら、も小走りするのをやめた。






○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ●






「・・・この辺りでいいかな。」



そう告げるなり、ヒノエは持ち前の身軽さでもって
近くに生えていた木の枝に、まるで飛び乗るようにヒラリと登った。
そうして木の根元を顧み、自分を見上げているに向けて手を伸ばすと、優しく微笑む。



、おいで。」



ヒノエがそう呼べば、はそれが当然であるとばかり、迷うことなくヒノエの手を掴んだ。
彼女は片手でヒノエの手を掴み、もう一方の手で手近にあった細めの枝を掴む。
木のこぶに右足を掛け、そこを足場にぴょんぴょん片足で跳ね、軽く反動をつけて木をよじ登ろうと試みる。
ヒノエはそんな彼女を支えてやり、足が地面から少し浮いたところで
思っていた以上に細い腰に腕を回して、力任せにの体を引き上げた。


思いのほか軽い彼女を、1度自分と同じ枝にまで引き上げてから
今度は両の手を腰に回して抱き上げ、1つ上の枝に座らせる。


『わっ!』と驚いて声を漏らした彼女に苦笑しながら
ヒノエは自らも軽々と、枝から枝へ飛び移って、座り込んだ格好のまま
まるで幹を抱き締めるようにしてくっついていた彼女に、手を貸して立たせた。
ヒノエに腕を引かれて心もとなく、しかしどうにか立ち上がった彼女に、足をずらして立つ場所を空けてやる。
細い腰をそっと引き寄せれば、はされるがまま、いとも容易くヒノエのほうに凭れてきて
そんな彼女を自らの体に寄り添わせることで、ヒノエはをしっかりと固定した。


やっと足場が安定し、ほっと息を吐いたに破顔して見せて
ヒノエはそこから一望出来る、広大な海原を指差す。
はヒノエの指先につられるようにして、ヒノエが示した方向を見やった。


・・・そう。普通の女性ならついてこないようなこんな場所にも
はいつも、当たり前のような顔をしてついて来た。



「ほら、見てみなよ。ここからだと海が良く見渡せるんだ。」

「わぁ・・・」



心地よい海風が頬を撫で、2人の髪を梳く。
が目の前の景色に見入っているのを確認して、ヒノエは彼女の耳元に囁いた。



「・・・な?綺麗だろ?」

「うん、熊野は本当に綺麗なところだね。」

「ここから見る夕日は、また格別なんだぜ?」

「・・・うん、そうだろうと思う。」



ヒノエがこんなに近くで囁いても、は照れる素振り1つ見せない。
眼前に広がる海だけを見つめて、こっくり頷く。

・・・その、真っ直ぐ前を向いているの横顔が、ヒノエはまた好きだった。

女性としての美しさだけでなく、強風に吹かれても儚く散ったりしない、彼女の内面の強さが見て取れるからだ。
前を見据えるその瞳は、いっそのこと男と紛うほど勇ましいのに
髪が風に靡いて覗く白い項や、こうして手に感じる線の細さは、確かに女性特有のもので。
思わずじっと見つめていると、その視線に気付いたが、心配そうにヒノエを見上げた。



「ヒノエ。ここは風が強いから、きちんと腕を通さないと、飛ばされてしまうよ?」

「・・・え?」



数秒遅れて間抜けな声を返したヒノエは、に『それ』、と指を差され
彼女が指しているのが、自分の肩にかけた腕を通していない上着だと気付くと、慌てて
―――
けれど彼女の横顔に見惚れていたような素振りはこれっぽっちも見せずに、平然とした顔で告げた。



「・・・あぁ。でも、今ここで着るのはちょっと難しいかな?」



それから今しがた思いついたかのように、予め考えておいた解決案を提示する。



「・・・ふふっ、そうだね。飛ばないように、お前が抑えておいてよ。」



がすぐに、自分が言った言葉の意味を、正確に理解出来ないことはわかりきっていたから
ヒノエはそう言いながらも、が返事を返すより先にの手を掴み、その手を自らの首へと誘導する。



「・・・なぁ、いいだろ?」



ヒノエがどうして欲しいと言っているのか、やっと合点がいった
彼の提案に戸惑いもせず、望まれるがままその腕を、自らの意思でもって、ヒノエの首にするりと回した。



「うん、わかった。」



の細い指が項を掠め、背中をちりちりとした感覚が走る。
旗から見れば、男女が抱き合っているようにしか見えないこの体勢も、が気にする気配はない。
これぽっちも疑わずに、素直にヒノエの言うことを受け入れた
そのままの格好でしばらくの間じっと、寄せては返す波の様子を眺めていたが
やがて隣にいるヒノエに聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で、ぼそりと呟いた。



「・・・この景色が、ずっと守られればいいのに・・・」



少し寂しげに呟くは、すぐそこにある海を見ているはずなのに
ヒノエにはもっと別の、どこか遠い場所を見ているような気がした。


この世界と酷似していて異なるという、が元いた世界の話を
ヒノエはにせがんで、何度か話して貰ったことがある。


のいた世界とココとでは、服装から食事から、本当に多くのものが違ったけれど
その中でも1番違うのは景色の美しさ、自然の在り方だと彼女は言う。
の世界ではこれほど緑は多くなく、海は蒼く澄んでいないのだと
――――― ・・・
・・・恐らく彼女は自分の世界の景観と、今ここから見えるこの景観とを、照らし合わせているのだ。



「・・・守るんだよ。この熊野別当、藤原湛増がね。」



風の音に掻き消されないよう、ヒノエがはっきりそう告げると
ずっと海の青ばかりを映していたの瞳が、今度はヒノエの赤を映した。
その瞳いっぱいに、自分の姿だけが映っていることを確認して、ヒノエは少し満足する。



――――――― ・・・うん。頑張って、ヒノエ。」



微かに微笑んで告げたに、ヒノエも軽く微笑み返して、けれどしっかり頷いて見せた。
ヒノエが頷いたのを見届けて、はまた視線を海へと戻す。
そこへまた強い風が吹いて、はふわりと舞い上がった髪を、指で絡めて耳に掛けた。



「今日、海に出たら・・・気持ちが良さそうだ。」



ヒノエに訓練をつけてもらって、泳げるようになったとはいえ
元々水を怖がっていたは、必要以上に船には乗りたがらない。
そんな彼女が自分から海に出たいと言い出すのは、実に珍しいことだった。
ヒノエは驚くと同時に、今より少しでも熊野の海を好きになって貰えたら、と思う。



「お前がそんなこと言うなんて、珍しいね。なんなら、出てみるかい?」

「・・・いいのか?」



そう提案すると、今度はが驚いたように瞳を丸くして聞き返した。
その声色には、暗にそんな理由で船を出していいのかと言う疑問が含まれている。
けれど水軍衆だって、が自ら海に出たいと言い出したのだと告げたら、きっと大喜びで船を出すだろう。


熊野水軍にとって、は既に大切な仲間であり
異世界から来た彼女に第二の故郷として
この熊野を少しでも好きになって貰おうという気持ちは、皆変わらない。


――――― ・・・例えいつか、彼女が帰ってしまうのだとしても。



「あぁ、姫君のためならそれくらいなんてことないさ。」

「なら、出てみたい。・・・いいか?」

「構わないよ。じゃあ、早速行こうか。」



ヒノエ1人だったら、このまま一気に下まで飛び降りてしまうところだったが
いざそうしようとして、今はが一緒であることを思い出した。
ギリギリのところで思い留まり、を再び太い木の幹に掴まらせると
まずは最初に、自分が下の枝まで降りることにした。
そのすぐ後に続いて、意気揚々と降りようとした彼女を、手で制して押し留めると
目の前で『待て』をされたの眉間に、くっきりと皺が寄る。



「ヒノエ。そんなことをしなくても、降りるぐらい1人で出来る。」

「いいから、お前はそこで大人しく待ってなよ。」



先に1つ下の枝へ降りたヒノエは、登らせたときと同じように
ひょいっとの体を抱きあげて、そっと枝の上に降ろしてやる。
きちんとが枝の上に立っていることを確認すると、ヒノエは滑るように木から降りた。
そうして自分の言いつけを守り、些かつまらなそうにしながらも
大人しく木の上で待っていたに向けて、大きく両腕を広げて見せる。



―――――――― ・・・いいぜ。ほら、おいで。」



呼びかけるとすぐに、ぼすっという音と共に多少の衝撃があって
ヒノエ目掛けて飛び降りてきたは、すっぽりとヒノエの腕の中に収まった。
宙に浮いている爪先を、トンと地面につけてやると
はあまり嬉しくなさそうに『ありがとう』と形だけの礼を言う。
その仕草が可笑しくて、わざと『どういたしまして』と返したら
は拗ねたような眼差しで、至極不満そうにヒノエを睨みあげてきた。

・・・・・・これだから、やめられない。

そんなの視線を受け流して、ヒノエは笑いを堪えながら踵を返すと
今度は熊野水軍本拠地がある三段壁へと、進路を取って歩き始める。
さっさと歩き始めたヒノエのすぐ後に、慌てたようなの足音が続いて
それに気が付いたヒノエは、にあわせて歩く速度を緩めた。


街道に出るまでの間、2人はずっと無言で歩いていた。
・・・決して、重い沈黙ではない。だが女性を前にして口を閉じている自分というのは
とても貴重なものであるような気がして、にバレないよう、ヒノエはそっと苦笑を漏らす。
そうして林を抜けた頃、ヒノエの2歩ほど後ろを歩いていた
突如歩調を速めて、ヒノエの隣に並び歩き出した。



「ヒノエ。」

「ん?」



が真横に来たことを、足音と気配で感じとりながら、ヒノエは前を向いたまま答えた。



「・・・・・・待ってもらわなくても、はヒノエについて行けるよ。」



もしかしたら、黙って歩いている間、彼女はずっとそのことを考えていたのだろうか?
思いもよらぬの一言に、ヒノエは驚いて、思わず勢いよくを見たが
はまた小走りになって、まるでヒノエの視線から逃れるように、ヒノエを追い抜いて行ってしまう。
ヒノエがその背中を見つめても、はちらりともヒノエを振り返らない。
今度はヒノエが、を追いかける番だった。



「おいっ、待てよ。」



元からヒノエのほうが、一歩の距離は長いのだから
ヒノエはそれほど苦労することもなくに追いついて、彼女の横に並んで歩き出した。
追いついたまではよかったけれど、彼としたことがそれ以上なんと声をかけたらいいのかわからず
結局無言のまま、ヒノエは瞬きも忘れての横顔を凝視することにした。
ヒノエの視線に気付いているだろうに、はただただ前だけを見て歩き続けていた。


真っ直ぐ前だけを見つめて歩くの横顔は、何度も見ている筈なのに
今はいつもよりも、妙に大人びて見えて・・・






―――――― ・・・その綺麗な横顔に。不覚にもヒノエは、一際大きな胸の高鳴りを感じた。















戯言。


あっはっはっは〜・・・えっと、その、すみません(滝汗)
ペットを躾ける10のお題『散歩』、ヒノエ篇でした。

なんだか、どっちがどっち篇でも構わないような話でしたね(汗)
お互いに色々と気付いていることがありながら、どこか逃げ腰で、でも欲しいんです(何語)
ともあれ別当殿は、よりちゃんが自分に従順であるように躾けて、ご満悦のご様子です。

ところで愛玩動物って響き、いかがわしくないですか?
そう訊ねたら、友人に『いかがわしいのはお前だよ』と返されてしまいました。
ハハン!確かに任那は変態ですが、なにか?(居直ってるよ、この子!)
会ってまず最初に、『知盛好きでしょ!?』と断言されるくらいですからね!あぁ、好きさ!!(あ、壊れた)





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2005/02/09