う泡の時空 









―――――――― ・・・全てが遠い。




水気を含んで重みを増した着物の感触も、胸を切り裂くような恐怖と哀しみも。
全てが遠く、これが本当に自分の身に降りかかっている出来事なのか、現実味が湧かない。

唯一聴こえるのは、遠く耳鳴りのように響き渡る雨の音と、
さっきまで自分を殺そうとしていた男達の、断末魔の悲鳴だけ。
ほとんど色の無いこの世界で、ただ“ソレ”だけが優雅に跳びまわり、紅い剣閃を閃かせていた。

分厚い雲と、冷たい雨と
――――― その中に咲く、一瞬の閃き。
鈍色(にびいろ) のそれらが、死にゆく者への手向(たむ)けに相応しいとさえ思えた。

彼女が太刀を一振りする度。紅い鮮血が、まるで踊るように鮮やかに飛び散り、
絶命する男達の悲鳴が、雨音と共に灰色の空に吸い込まれて消える。

それは先程知盛が見た、人の命を奪う行為となんら変わりない筈なのに、
彼女が2本の刀を手足のように(ひるがえ)し、敵を(ほふ)ってゆくその様は。
知盛にどこか、神聖な行為であるようにさえ感じさせて、思わず言葉も忘れて魅入ってしまう。
殺し合いというよりも、舞でも舞っているといったほうが、ずっとしっくりくるような優雅さだ。

さっきまで恐ろしいと感じていた血の紅が、これほどまでに美しく見えるとは知らなかった。
その新たに芽生えた感覚に自由を奪われ、流す血がなくなり、その手が止まるまで。
知盛の瞳はずっと、突然現れた“彼女”に釘付けだった。






・・・そう。これは、恐怖心からくる束縛ではない。






足元から何かが這い上がってくるような、そんな奇妙な高揚感。
ぞくぞくとした痺れが、爪先から頭のてっぺんに抜けて走り、
足も視線も、指1本すら動かせない。意識しなければ、呼吸さえ忘れてしまいそうだ。

・・・やがて、彼女と知盛以外の人間が、鼓動の音すら発さなくなった頃。
そこには静かな雨音と、2人の呼吸だけが響いていた。

肩で大きく息をして、乱れた呼吸を整えた彼女は、刀を素早く一振りして、刃に付着した鮮血を払う。
跳んだ血は、ピピッと地面に固有の模様を描き、そして降り注ぐ雨に滲んだ。
体を冷やすだけの冷たい雨も、このときばかりは降っていたことが幸いしたのか、
雨と一緒に(くぼ)みに溜まった血は、既に周囲に流れ始め、薄れつつある。

チン、と彼女が刀を鞘に納めた音を聞くと、知盛の身体から力が抜けた。
彼女が自分の敵でない証拠は、未だ何一つ見つからなかったが、
知盛にはどうしても、彼女があの男達と同じように、自分を殺しに来たのだとは思えなかったのだ。

それからしばらくの間、彼女は身動ぎもせず、まるで懺悔(ざんげ)でもするかのように。
自分が斬り伏せた、“生きた人間だったもの”たちの残骸を見詰めていた。

知盛には何故か、こちらに背中を向けている筈の彼女が泣いているように見えて、
一瞬声をかけようかどうか迷ったが、すぐに彼女が泣いているわけではないことがわかった。
突然、それまでしっかりと己の足で地を踏み締めていた彼女の体が揺らぎ、
そのまま崩れ落ちるようにして、泥濘(ぬか)るんだ地面にがくりと片膝をついたのだ。

驚いた知盛が思わず1歩足を踏み出すと、足元に溜まっていた水が、ピシャンと音をたてて()ねた。
その音は、静まり返ったこの空間で予想以上に響き渡り、
弾かれたように顔をあげた彼女が、危機感を(はら)んだ眼差しでこちらを振り向く。

彼女の動きに合わせて揺れた髪から滴り落ちた雫が、綺麗だと思ったのも束の間。
氷のように冷たく、自分を射抜く新緑の瞳に心を奪われて、知盛は身動きが取れなくなった。
そこかしこに倒れている“モノ”達と同じように、知盛の体まで生きることをやめてしまったかのようだった。



――――――― ・・・ッ!?」



すぅっと大きく息を吸い込んだ後、彼女は力強く地面を蹴る。
彼女を中心に、ぶわっと強い風が巻き起こったと思ったその瞬間。
知盛は、背後にあったあの大きな木の幹に、薄っぺらな体を強く叩き付けられていた。
一瞬の眩暈(めまい)にも似た感覚の中で、感傷も同情も憐れみも躊躇いも、全ての感情を押し殺したような、
けれどそれでいて、奥底に渦を捲いてうねる感情を秘めたその瞳に、
無様に叩き伏せられる自分の姿が映り込んでいるのを、知盛は確かに見たような気がした。

腹の底を突き破って、木の枝が生えてきたのではないかと思うほどの強い衝撃に、
視界が揺れ、見るもの全てが真っ暗になって(ようや)く、知盛は自分が瞼を閉じたのだと気付く。
一体自分は、地に足を付けて立っているのか、或いは宙を飛んでいるのか。
それすらわからない中で、知盛はどうにかこうにか瞳を開けと脳に指令を送り続けた。

父や兄と剣の稽古をしたときにも、口を酸っぱくして言われた言葉。
“瞳を背けるな” 何をするにも、瞳を背けていては始まらないのだ。
自分がこれから向かってゆくものの姿を、はっきり視界に捉えなければ。

知盛がやっとのことで薄く瞳を開くと、あの新緑の瞳がすぐ目の前にあった。
ここまできて、漸く知盛は自分の置かれた状況を認識する。
手負いの獣のような瞳、必死になって生に執着するモノの眼差し・・・
なんてことはない。なんとしも生き残りたいと願う彼女の、攻撃対象が己に移っただけのことなのだ。



「ぐっ・・・!」



あの細い腕のどこに、それだけの力が宿っていたのだろうか。
思ったよりも衝撃は強く、叩きつけられるのに数秒送れて、内臓を混ぜっ返されているような感覚がする。
目まぐるしくまわる視界の隅に、十分すぎるほど血を吸った刃の鈍い輝きが見え、
幼い知盛は今度こそ、自らの死を覚悟した。






けれどその身を支配するのは、先程のような恐怖ではない。






彼女になら・・・この眼差しになら、射殺されるのもいいかもしれないと思えた。
彼女の瞳は、必死になって生に(すが)りついている。なにがなんでも、生き抜いてやるという瞳だ。
知盛は、死と言う未知の経験に恐怖こそすれ、
どうすればこれほどまでに現世に執着出来るのか、或いはしたいと思えるのか・・・
短い人生の中で、未だそんなものは見つかっていない。

もしこのとき知盛の考えを、他の大人達が聞いたならば。全員が声を揃えて笑ったかもしれない。
まだこんな小さな子供に、そんな大層な理由が見つかるものかと。

けれど知盛は、真剣にそう思っていた。だから、必死に生きようとする彼女になら。
その理由を見つけられた彼女にならば、殺されてもいいと思えたのかもしれない。

――――――――――― ・・・ただ、せめて。
己の最期の瞬間まで、この強い眼差しに射抜かれていたいと、どこか夢心地に願った。




ヒュッ!!!




すぐ耳元で、目前に迫った刃が風を切る。
その刃が次に切り裂くのは、自分の皮膚であるとわかっているのに、
・・・けれど知盛は最後まで、決して瞳を瞑ろうとはしなかった。




ダンッッ!!!!




「・・・ッ!」



まるで他人事のように、自分が息を呑む音が聴こえる。
耳のすぐ横に、鈍く光る刃のきらめきが在って、思わずごくりと咽を鳴らした。
・・・いつの間にか握り締めていた掌は僅かに汗ばんでいて、酷く気持ちが悪い。



――――――――― ・・・彼女の刀は、知盛を貫かなかった。



知盛の命を絶つかと思われた刃は、銀糸のような髪の毛数本を散らしただけで、
頬から紙一切れ分挟めるかどうかといったところに、深々と刀身を埋めている。
放心状態にあった知盛が、漸く状況を理解した頃。遅れたようにチリリと、頬に小さな痛みが走った。
反射的に眉を顰め、その部分を指でなぞると、指の先にほんの少し、ぬるりとした紅い液体が付着する。



「・・・もり・・・?」



指先に付いた己の血に意識を奪われていると、微かにそんな声が聴こえて、知盛は顔をあげた。
目の前の“彼女”は、どこか(うつ)ろな瞳で、困惑したように知盛を見下ろしている。



「え?」

―――――――― ・・・でも、少し・・・・・小さい?」



そう呟いた彼女からは、もう先程までのような覇気は感じられなかった。
寧ろ、頼りなげに揺れる新緑の瞳が、幼いながらも知盛の庇護欲(ひごよく)を掻き立てる。
発された言葉の意味がわからず、そのまま彼女を凝視していると、少女は突然顔を顰めた。
小さく呻き声をあげ、彼女は肩口を押さえながら、知盛に覆い被さるようにして倒れ込む。



「・・・くっ!」



思わず背中に手をまわし、無謀にもその体を支えてやろうとして、
知盛は先程頬に感じたものと同じ感触を指先に見つけ、ハッとなった。



「・・・お、おいッ!お前、怪我をしているのか!?」



彼女越しに見た自分の手は、血塗れになっていた。
見れば、彼女の細い指の隙間からは、小さな手では覆い隠しきれないほどの大量の血が溢れ出し、
一番上に着ている群青(ぐんじょう)色の陣羽織(じんばおり)にまで、じんわりと紫色の染みを作り出していた。



「へ、いき・・・・・・傷口が、開いただけ・・・・・だから・・」



とても大丈夫だとは思えない苦しげな声色で、途切れ途切れに彼女が言う。
この出血で大丈夫なわけがないだろうと思ったが、何故かそれを口に出すことは躊躇われた。
彼女が苦しげなその理由が、傷の痛みだけではないように思えて、掛ける言葉が見つからなかったのだ。



「あなたのほうこそ
――――――――― ・・・大丈夫?」



それでも、彼女は微笑んでそう言った。知盛はべっとりと血のついた己の掌を見詰めて、考える。
この血の量からすると、彼女の肩の傷は、小さいとは決して言えないだろう。
治ったとしても、もしかしたら痕が残ってしまうかもしれない。
なんとなくそれが気に喰わなくて顔を顰めると、それを否定と受け取ったのか、彼女が静かに瞳を伏せた。



「・・・ごめんなさい・・怖がらせて、しまったね・・」

「・・・ぁ。」

「もう・・・大丈夫、だから・・・・」



言いながら、彼女は知盛の頬に出来た真新しい傷を、
親指でそっとなぞって血を拭き取り、それから静かに顔を近づけた。

生暖かい感触が、知盛の頬を・・・傷の上を、()う。
自分の頬を這い上がるそれが、彼女の舌なのだと認識した途端、
彼女の細い体から力が抜け、今度こそ知盛を押し倒した。



「・・・・・・・!?」



完全に意識を失った人間と言うのは、女性と言えど予想以上に重たくて、
知盛は二重に驚いてしまったが、彼女はどうやら気を失っただけのようだった。
長く、柔らかい髪が知盛の腕を(くすぐ)り、耳元では微かに、乱れた荒い吐息が聞こえる。
木の幹に押し付けられたままの状態の知盛は、どうしたらいいものかわからずに、
まだ血で濡れて乾ききっていないその手で、
目の前で露わになっている彼女の白く、細い首筋に、そっと触れてみた。




ドクン・・・




暖かい、生きている・・・生きて、ここにいる。自分も、彼女も。
そう理解した瞬間、思い出したように血が全身に巡り出し、冷え切っていた知盛の頬が、かぁっと熱くなった。












戯言。


はい。かなり間が空いてしまいましたが、雨が誘う泡沫の時空その3をお届けします。
これで、取りあえずと知盛が出逢いました。
雨が誘う泡沫の時空は、本編は短めにして、
あとは姉上と子チモの設定でいくつか小話を書けたらなと思っております。

実はうちのチモは、ちゃんに一目惚れだったりします(笑)
なんと言いますか、圧倒的なものへの憧れとでも言いましょうか。
そんな感情を抱いていまして、それと同時に恋焦がれてしまったりするわけです。

・・・ちなみに。が気を失う前に、知盛の頬に出来た傷を
舐めてしまったのは、きっとヒノエの良くない影響だと思います(笑)





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2006/07/23