ぶくぶくぶく・・・ わざとらしくそんな音を立てて、は湯船に頭まで沈み込んだ。 この時代、簡素なものとはいえこのような湯船に入る習慣はまだなかったはずで 熊野にいた頃、はヒノエに無理を言って、しょっちゅう温泉に入りにいっていた。 だが何故か、ここにはそれがあるらしい・・・将臣の影響なのだろうか? ともかく、有難く入らせて貰うことにした。 は水が嫌いだし、ヒノエに泳法を教えて貰うまで、息継ぎの仕方さえわからなかったのだが こうして湯船なんかでは、すっぽり頭まで湯に浸かることが出来る。 それは高所恐怖症の人間にも言えることで、ガラス張りの高層ビルは怖くて登れないけれど コンクリートの壁で出来たビルなら登れる、そんな感じに似ていると思う。 ・・・溺れないと保証された空間だからこそ、潜ることが出来るのである。 「・・・ぷはっ!」 酸素を求めて勢い良く顔を出すと、 お湯がざばぁっと、湯船から溢れ出る音がして、水面がゆらゆらと波立つ。 長くなった髪の毛から滴り落ちた雫が、の視界を邪魔した。 「・・・・・・。」 まだ波紋の広がっている、透明な湯に、はそっと手を通す。 だが大切に大切に両手で掬い上げた筈のそれは、指の隙間から零れ落ちていった――――― ・・・ 未来に出逢う過去の幻影 伍 の後ろ姿が完全に見えなくなってから、将臣は小さく溜息を吐いた。 凄みを利かせて知盛をギロリと睨んだが、やはりというかなんというか、さっぱり応えていない様子だ。 どっかり床に腰を下ろして、実につまらなそうな顔で庭を眺めている。 ・・・どうやら、不貞腐れているらしい。 普段から知盛は、なにかと不満そうなほうではある。 ではあるが、ここまで不機嫌を露に・・・しかもまるで、子供のするそれのように表現しているのも珍しい。 そんな知盛の、今将臣から見えない左頬には、真っ赤なの手形が残っている筈だ。 ・・・あの知盛の頬に、紅葉を付けた女なんて、 恐らく後にも先にもただ1人だろうが、こればっかりは自業自得だと将臣は思う。 突然無言でに詰め寄ったと思ったら、いきなり着物を脱がしたのだ。 から、悲鳴と共に平手をお見舞いされても仕方がない・・・というより、寧ろそれが正常な反応だろう。 ・・・そういえば、高校に入学したての頃。 しつこく付き合えと言い寄られていた、名前も知らぬ男子生徒にも、 は思い切り平手を喰らわしていたな・・・と、将臣はどうでもいいことを思い出した。 なんでも、壁際まで追い詰められたとかいう話で、 昇降口で双子を待っていた将臣は、現場を偶然目撃してしまったのだが、それはもう壮絶だった。 鉄筋で出来た校舎内に、ばちーんという音の響くこと響くこと・・・ ただその男子生徒に関しては、後々望美にもちょっかいを出していたようなので あまり人目につかないところで、将臣が丁重に話をつけておいたことは、2人には秘密だ。 ・・・途中随分と話が逸れたが、ともかく知盛の様子が可笑しいことは確かである。 不機嫌なだけならまだしも、あんな風に目に見えて不貞腐れているのも珍しいし、 知盛ともあろう者が、の平手をまともに喰らってしまうのも、考えてみれば可笑しい話だ。 そもそも知盛は抱くことはあっても、女に情けを掛けたり、優しく接したりはしない。 お陰で彼に外見だけは瓜二つの弟は、その尻拭いに毎回毎回奔走させられていることを、将臣は知っている。 それなのに、に対する知盛の態度はどうだろう? 目を覚ますのを待っていたのか、気を失っているの傍にずっと付き添っていたし 将臣が言うよりも早く、薬師を呼び、湯浴みの準備までさせていた。 ・・・知盛というのは、そんな気遣いをする男だったか? もっと言えば、あの知盛が人を助けてくるところからして可笑しかった。 なんにしろ、共通しているのはの存在である。 将臣にしてみれば、何が気になるのか不思議なくらい、知盛はに興味を持っている。 彼の言動は紛らわしいから、は完全に怯えてしまっているが、 知盛は別に驚かせようとしているのではなく、を構っているのである。 される方にしてみれば迷惑な話かもしれないが、あれが知盛なりの可愛がり方なのだ。 ・・・・・・そういえば。将臣が最初にの名前を呼んだときも、知盛の態度が可笑しくはなかったか? まるで、最初から知っていたように、の名を呼んでいた気がする。 確かに将臣は、知盛にのことを話したことがあった。 けれどそれは、あくまで幼馴染としてであって、という個人名を出したことはなかったように思う。 でもまぁ、知盛が拾ってきた女というのがだと知ったときは、 将臣もかなり気が動転していたから、その辺りの記憶はあやふやだし、 以前にの名前を口にしなかったかどうかも、定かではない。 だがも、一目見てあいつが平知盛だとわかったようだったし もしかしたらあの2人は、既に1度、どこかで会っていたりするのだろうか・・・? 「・・・なぁ、知盛。」 「・・・・・・。」 知盛が、まともに返事が返さないのは、今に始まったことじゃない。 「お前さ、と――――――― ・・・」 “どこかで会ったことあるのか?” そう尋ねようとした将臣の声は、ばたばたとこちらに近づいてくる足音に掻き消された。 ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● そうしてゆっくり考え事をし、これからどうするかを纏めたが 風呂から上がれたのは、入ってから小一時間ほども経った頃のことだった。 とりあえず、将臣のことは望美にも相談する必要があるだろう。 そう判断して、しばらくはこのまま、均衡を保つことにした・・・つまりは、後回しということだ。 今は別当と悟られずに、ヒノエに連絡することを最優先にする。 ところが、湯浴みを手伝うと言い張ってに拒否された女房達は が風呂からあがるのを、今か今かと待ち構えていたらしい。 やれ体を拭きますだの、着付けを手伝うだのと言って、一斉に取り囲まれてしまった。 はここ数ヶ月で、どうにか着慣れてきた袴を1人で履き、 単の着物の前を合わせて、帯代わりの紐をぐるぐる捲き、適当に後ろで蝶々結びにすると、 ただでさえ、歩くたびに引き摺ってしまいそうな着物の上に、 更に重ね着させようとする彼女達を振り切って、大慌てで湯殿から逃げ出した。 当然のことながら、用意された着物は極々普通の女性物なので 普段から動き易い服装を選んでいるとしては、歩き辛いことこの上ない。 女房の1人を急かして、最初寝かされていた部屋まで案内して貰い そこに夢でも幻でもない将臣の姿を見つけて、は漸く肩から余計な力を抜いた。 「・・・オ、オミ・・・」 「おっ、やっとあがったのか・・・やっぱり女は風呂が長いよな。」 なんだかどっと疲れが出たような気がして、振り返った将臣に、倒れるようにして凭れ掛かる。 そんなを将臣はくるりと一回転させて、 とりあえず、という感じに結んである帯を見ると、小さく苦笑を漏らした。 「それにしても、随分適当に結んだな。」 「だって、あの人達も悪気はないんだろうけれど・・・ なんでもしてくれようとするし、もっとぐるぐる巻きにされそうだったから、逃げてきた。」 「ははっ、そりゃご苦労さん。」 そのお陰で、ずいぶん苦労したというのに、 他人事のように笑い飛ばす将臣に――――――― いや、実際他人事なのだから仕様がないが。 はもう、と溜息を吐いて見せてから 警戒するように辺りの様子を窺って、ひそひそ声で尋ねた。 「・・・あの、人は?」 「あの人?・・・あぁ、知盛のことか。」 「しーっ、しーっ!」 敢えて名前を出さなかったのに、これでは意味が無いではないか。 そんな非難の意を込めて、立てた人差しを強調しながら将臣を睨みつけると 彼はやれやれと言わんばかりに、の位置からでは見難い場所を指で差した。 その先を目で追うと、そこには確かに“例のアレ”が鎮座している。 「・・・ッ!」 そんなに遠くへ行ってはいないだろうと思っていたが、想像以上に近くにいたものだから、 は驚いて、その場で10センチほど飛び上がってしまった。 ・・・少なくとも、さっきの会話は筒抜けだったに違いない。 途端居た堪れない気持ちになり、こちらを見られているわけでもないのには慌てて、将臣の影に身を隠した。 「おいおい、・・・・・ったく、しょうがねぇなぁ。」 突然しがみつかれた将臣は、仕方がなさそうにそう言ってから それでも、よしよしと子供にするように、の頭を撫でてくれる。 その手の大きさにはどこか安心して、強張っていた体から力を抜いた。 しばらくそのままの状態で撫でられていて、ふと気が付く。 「あ、そうだオミ・・・」 「ん?」 「えっと・・・お風呂とか、着替えとか、 あと、助けてくれたこととか・・・ありがとう。ずっと、お礼を言うの忘れていた。」 が言うと、将臣は一瞬きょとんとしてから、何故か困ったように頭を掻いた。 「あー、。勘違いしてるようだから言っておくが・・・・・・ 海岸に倒れてたお前を拾って、ここまで連れてきたのは俺じゃあない。」 「え?じゃ・・・」 じゃあ誰が?そう問いかけようとして、サーッと血の気が引いていく。 まさか、まさか・・・・・・・・ 将臣を見上げた体勢のまま、半ば放心しかけていると の考えていることがわかったのだろうか、将臣が神妙な面持ちで言った。 「そうだ、お前を助けたのは俺じゃなくて――――― ・・・」 アレだ。 さっき言うなといったせいだろうか? なにもこんなときに伏せなくてもいいのに、将臣は敢えてその名を声には出さず、 廊下に座っている平知盛を指差した。 「嘘・・・」 「こんなことで、お前に嘘ついてどうするんだよ?俺は今日、屋敷に缶詰だったしな。」 本当に驚いたとき、人間というのは嘘でないとわかっていても そう言わずにはいられない生き物らしい。 そしてそれほどそれは、にとって認め難い事実だったのだ。 「・・・どう、して?」 「・・・さぁな、それは俺にもわからねぇよ。本人に聞いてみたらどうだ?」 誰かに聞かずにはいられなくて尋ねてみたが、確かに将臣が解る筈もない。 助けられた自身も、どうしてなのか解らない・・・解るのは、平知盛本人のみだ。 ・・・は意を決して、将臣から一歩離れた。 「おっ。」 将臣が、覚悟を決めたを見て、面白そうに小さく声をあげた。 これがなんでもないときなら、“こっちは真剣なんだから、そうやって囃したてないで”と 振り返って言ってやるところだが、今はそんな余裕もない。 まさか、憶えていたりするのだろうか・・・? あの燃える京で出逢った自分を、彼は憶えている? そんなことはないとわかっていながらも、その考えを完全には、頭から追い払えないがいる。 憶えていてもおかしくはない、そうに思わせるだけの雰囲気を、平知盛は持っていた。 どちらにしろ、お礼を言わなければ。 そのついでに、思い切り叩いてしまったことも謝ればいい・・・そう、謝罪はついでだ。 咄嗟に出てしまった手だが、は自分の行動が間違っていたとは思っていない。 後ろで、将臣が楽しそうにこちらを見ている気配がする。 一歩一歩、平知盛に近づく度に。重力が増していくような気がして、足が重い。 未だかつて、ありがとうの一言が、これほどまでに重く感じられたことがあっただろうか?・・・恐らくない。 たった一言・・・なのにそれすら、告げることを躊躇われる。 言葉というのは、とても不思議だ。 ちょっと挨拶をしただけでも、発した者と受けた者の間になんらかの関係を作ってしまう。 声を掛けた瞬間から、その人とは無関係ではいられないのだ。 人間関係の希薄な現代ですら、声を掛けるということは危険を孕む。 もし外でたまたま言葉を交わした人間と、学校の教室ででも出くわしてみろ。 “昨日喋った人”から、すぐ“クラスメイト”に早変わりだ。 ・・・言葉に力が宿るとしていた昔の人々の考えも、なんだか頷けてしまうような気がした。 ・・・少なくとも、今のの場合。 それがたとえ小さな感謝の言葉だとしても、声を掛けてしまえば無関係ではいられない。 ・・・いや、それももう手遅れなのかもしれない。 既にと平知盛は、無関係とは言えないのだから。 けれどお礼すら言わないのも、あの男にずっと貸しを作ったままでいるようで、なんだか嫌だ。 礼儀を重んじているとしても、頂けない。 すぅーっ、はぁー・・・ あまりの精神的圧迫感に、途中で1度立ち止まり、 が深呼吸をしていると、後ろから将臣が、早く言って来いと背中を押した。 不満気に見返すと、彼はこちらが疲れるようなにやにや笑いをして、 の耳に小さく“危なくなったら助けてやるって”と、慰めにもならない言葉を掛ける。 ・・・・・・危ないことには、なりたくないんだってば。 けれどいつまでも、こうして立ち尽くしているわけにもいくまい。 は軽く握り拳を作って気合を入れ直し、 “お礼だけお礼だけ!”と自分自身に言い聞かせると、再び平知盛に向けて歩き出した。 ・・・ところが、あと一歩でが廊下に出るというそのとき。 「あぁ、兄上。こちらにいらしたのですか、お探ししました。」 そう言いながら、平知盛のいる方向と逆方向から、誰かが廊下を歩いてくる。 「え?」 「・・・あ。」 ぼすっ。 知盛に全神経を傾けていたは、近づいてくる足音に気付くのが遅れ、すぐには止まれない。 その結果。は意図せず、見知らぬ人の胸に飛び込むことになってしまった。 衝突する寸前、こうして胸に顔を埋めることになってしまった人の顔を見たような気もするが それはあまりに一瞬のことで、相手が若い男だということぐらいしかわからない。 ・・・最も、そんなことは声と、ぶつかった感触だけでも解ることなのだが。 「・・・あぁ、もしかすると貴女が兄上のお連れした・・・?申し訳ありません、私の不注意でしたね。」 の聞き間違いでなければ、この声は知盛じゃないだろうか!? がそんなことを考えているとは、露ほども知らず その人は、自分の胸に顔を埋めた体勢のまま、固まってしまったをどう思ったのか、こう続けた。 「・・・お怪我はございませんか?姫君。」 「・・・・・・。」 いつまで経っても動けずにいるに、その人はくすくす苦笑しながら言う。 慣れたように紡がれた、“姫君”なんて気障な言い回しが、あまりにもヒノエに似ていたものだから もついつい小さく笑ってしまい、ゆっくりと顔をあげ・・・・・・・再びフリーズした。 「――――――― ・・・貴女、は」 を見て、驚いた風に目を瞠るその男は、平知盛にそっくりな銀色の髪と、紫の瞳をしていた。 ・・・そう。まるでそこにもう1人の、平知盛がいるかのような――――― もしかして、これは噂のドッペルゲンガーというもの!? 「ぎゃあああああああーーーッ!?!?」 そう考えて蒼褪めたは、本日何度目かになる大絶叫を上げたのだった。 |
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戯言。 はい、前回と前々回に学びやっぱり短くしようと察しました任那です。 色んな人に視点を変更させて、細切れにして書いたほうが良さそう。 前回と前々回は、いつか書き直したい気もするのですが、もう見たくないのが本音です(笑) 今回、小説を書くにあたり・・・というわけでもないのですが、 時代背景をちょこっとだけ、調べてみたりしました。 家の構造とか、着ている装束のこととか、そういうの。 でも、日常的でない言葉でずらずら書いても“?”になるので、廊下とかにしてみました。 調べてみて、梶原邸とかについて色々疑問も生まれたのですが(笑) まぁ、そこはご都合主義で、深く考えずにいくことにしました。 ほら、一種のパラレルワールドなんだろうしね、遙か世界って!(逃) 話としては、ついにあの人が登場しました。 兎も角も、今のはすべての基準がヒノエか将臣な気もするのですが 果たして、銀髪兄弟と仲良くさせることは出来るのでしょうか。 |
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2005/10/23